明智小五郎がやってきた

マンガ「明智小五郎がやってきた」令和の小林という少年のところに明智小五郎が本の中からやってきます。

反戦少女(コラム)

私が反戦少女になったのは、幼稚園のときでした。

 


激しい地上戦があった沖縄という土地柄だけではありません。

 


私が入ったのは(うちは無宗教だったのですが)、母が選んだ、那覇市小禄にある聖マタイ幼稚園というところでした(現在は当時の場所から移転しています)。

 


私が通ったのは1980年代でした。

それより10年ほど前、幼稚園側で工事中に沖縄戦中の不発弾の爆発があって工事をしていた数名と女児1人が亡くなるという出来事がありました。

 

 

 

 

 

 

幼稚園に行っていたころ、以前そういうことが起きた、戦争はぜったいにしてはいけません、と先生は言い、私たちは「戦争を知らないこどもたち」の1番をよく歌いました。

 


もしかしたらまだ爆弾が埋まっているのではないか?

 


そう思いながら幼稚園を過ごしました。

 


なぜ?

なぜ死んだの?

なぜこのようなことが?

それからずっとそう思っていました。

 

 

 

 

 

そして小学校入学。

当時の沖縄の教育現場はどこもだいたいそうだったと思うのですが(現在はわからない)、ほかの地域の方から見たらずいぶん強く反戦教育が行われた、と思われるかもしれません。

 

 

 

遠足…だいたい平和記念公園(糸満市)

読書感想文・画…戦争のことをあつかう生徒も多かった

6月…沖縄戦終戦記念日に黙祷、合わせて学校の図書館などには資料(白旗の少女や集団自決の写真など)が展示されたり、戦争に関するアニメ映画(対馬丸はだしのゲン)や沖縄戦の資料映像を見たり

 


対馬丸はだしのゲンのアニメ映画は衝撃的でした。

(対馬丸のアニメ映画…対馬丸で九州へ疎開しようとした多くの子どもを含む乗っていた人たちの物語で、ある少年が主人公。仲良しの友人2人と一緒に行けることがわかり喜ぶ。しかし対馬丸は九州へたどり着く前にアメリカ軍の攻撃によって沈められてしまう。)

 

沖縄戦の資料映像では激しい艦砲射撃、死んだと思われる男性が斜面をずるずるっと落ちていくシーンもあり、今思うと結構強烈な映像を見ていたと思います。

 


8月の広島と長崎に原爆が投下された日、終戦記念日には黙祷しました。

お盆に泳いではいけない、と言われました。

 


沖縄戦を思い出さない季節は、ありませんでした。

 

 

 

私は小学校の図書館で戦争の本を片っ端から読みました。読んでない本はないはず。

 


そして私は完璧な反戦少女となったのでした。

 


  

 

 

 

 

 

 

なぜ…

 

なぜ戦争が起きたのか。

 


なぜという気持ちは当時どこまであったのだろうか?

 


まだ、大人が語る恐るべき正体を、掴めずにいました。

 


なぜ…という問いはなぜ戦争が起きたのか、ということのほかに、

「どうしてずっと大人は戦争のことをいうの?」

ということも考えるようになっていました。

 

 

 

そのころ、天皇や国歌、日の丸を否定した教師もいました。なぜなら、そのために戦って太平洋戦争で人は死んだからだ。というものでした。小学校・中学校の、

「国歌斉唱」

という場面で(入学式卒業式などのセレモニーで)

「立つな!歌うな!天皇はまちがっている!」

と言う教師がいました。

 


私たち生徒は戸惑いました。

恐らく多くの生徒たちにとって、天皇や国歌は、少なくとも、「戦争を推進する悪いもの」とは思えなかったから。

 

 

 

そのころサッカーのJリーグ開幕からW杯の話題が盛り上がったり、またオリンピックで日本の日の丸は自分たちの国の旗として普通だと思っていました。

テレビなどで見る限り、天皇(現在の上皇陛下)はいつもにこにこして悪い人には見えない。

その教師の言葉に従う生徒はほとんどいなかったように思います。

 

 

また、以前のコラムで書いたのですが(下記リンク参照)、中学校の歴史の教え方にも大人になってからは疑問を持つようになりました。

もちろん教師としては戦争がどんなに恐ろしいものか伝えたい一心であったのかもしれませんが…

江戸川乱歩と「いだてん」の時代(コラム) - 明智小五郎がやってきた

 

 

 

 

 

 

 

そして年月が流れ…

私は大人になって(ついでに言うと高校からのひきこもりを脱出した)社会人として、どうしても仕事をしなくてはと思うと、ほかのことをやる時間はありませんでした。マンガやイラストはその間ほとんど描いていません。

 

 

 

しかしその仕事さえ、体調を崩して辞めざるを得なくなりました。それからは就労支援事業所に行きました。

 

 

 

今から数年前、幼稚園に不発弾爆発事件の慰霊碑ができた(移転先で)という記事を新譜で読みました。園長先生は私(や兄弟)を知っている方でした…

「いつでも献花に来て下さいね」

とおっしゃって下さったのですが、私は未だに訪れられずにいます。

無事に卒園させていただいたのに、この病の身では、申し訳なくて。

 

 

 

 

 

 

その代わりにはならないだろうけれど、戦争の謎を解きたかったけれど…

調べれば調べるほど戦争は複雑で…

だからといって戦争は始めてしまっては終わりだ…

では今、どうする…

 

 

 

 

 

 

私は4コママンガを描きました。

この4コママンガで描きたかったことの1つは、戦争でした。

かつての熱狂的な反戦少女であった自分ですが、大人になるにつれてなんでも戦争反対、第二次世界大戦では日本人はまちがっていた、すべて日本が悪い、と言いがちな地元の論調に疑問を持って、もっといろいろな視点から戦争を考えたいと思いました。

 

 

 

40才で描いたのだが、どうだろうか。どのくらい「描けている」のだろうか。

地元の人々から見たら

「ずいぶんヤマト(本土)寄りだねぇ」

と言われるかもしれません。

沖縄戦については一回しか触れていないし、地図で表現しました。地図や年月日の方が(沖縄戦のことをあまり知らない人でも)端的に悲惨さがわかってもらえるのではないか、と思ったからです。

rakuboro.hatenablog.com

 


戦争のあまりにリアルな残酷な絵や表現などは避けました。

東京大空襲の犠牲者の絵はリアルではなく多分にファンタジーみたいなものも含まれています(実際の絵というよりイメージのようなもの)。戦争全体のエピソードにしてもそんなふうに描きました。

rakuboro.hatenablog.com

 

 

 

 


このコラム(自分の戦争についての考えなど)は「明智小五郎がやってきた」の第3章が終わったら書くと決めていました。

が、今のような世界情勢になるとは思わず戸惑っています。

なかなか文章がまとまらない。

いっそ保留にしようか。

でもマンガの流れとしては戦争から離れるから、あとから書いても意味がないかもしれない。

やはり今公開しようと思います。

 

 

 

現在の私の考えですが、戦争はやはりやってはいけないものだと思います。

でもどうして人や国が戦争をしようと思う(思った)のか、過去の戦争で何があったのか、もっと勉強をしていこうと改めて強く思いました。

そしてありふれた言い方かもしれませんが、もっといろんな国のことを深く知りたい、戦争だけでなく、その歴史や文化も勉強していきたいと思いました。

 

1人でも多くの人が

広く学ぶこと、調べること、そして考えることをすれば、戦争を避ける手段や考え方を見つけることができると、今の私は思っています。

 

 

 

とはいえ…

 

私は反戦少女だったあの頃から成長したのでしょうか?

ちゃんと成長しているのでしょうか?

十分すぎるほど大人になってしまいましたが、子どもたちや若者たちから見て、良い大人でしょうか?

その自問はマンガの戦争エピソードを描き終えてからもなお、続いています。

 

 

(ちなみに1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸した。)

 

 

 

 

4コママンガ「明智小五郎がやってきた」の戦争に関するエピソード(第3幕)は

rakuboro.hatenablog.com

から

rakuboro.hatenablog.com

まで